memorandum -another lost decade

戦後70年日本のかたち(4)所得倍増計画の時代―予想超えた高度成長、つくれば売れる好循環

 モノをつくれば売れる。働けばもっと豊かになれる。だれもがそう信じることができた時代があった。1950年代後半から約15年続いた高度成長期だ。10%成長が実現するなかで、米国に次ぐ西側第2の経済大国となった日本人は敗戦で失った自信を取り戻していく。
 いまでは当たり前のことのように感じる高度成長だが、それを予測した人はほとんどいなかった
 56年の経済白書で使われて有名になった「もはや戦後ではない」という一文。だがその主眼は、戦後復興期のような高成長の持続を安易に期待するな、と警鐘を鳴らす点にあった。
 「戦後復興という特別な時代は終わったんだから成長率は当然下がるというのが一般的な見方だった」。当時、白書を主管する経済企画庁の若手官僚だった宮崎勇は振り返る。

慎重論を退ける
 そんな慎重論に真っ向から異を唱えたのが大蔵省のエコノミスト、下村治だ。下村は「日本経済はいまや歴史的勃興期にある」とし、本格的な2ケタ成長時代が始まると主張した。
 原動力は民間の設備投資。投資を増やし、生産能力を上げればそれがそのまま成長につながると見た。
 主張の背景には「日本国民の創造的能力」への強い確信があった。豊富で質の高い労働力の存在と、積極的な技術導入などで生産性を高める工業部門の先行きへの期待である。
 大企業と中小企業の二重構造。景気が良くなると対外赤字が増える「国際収支の天井」。当時強調された諸問題も高成長で解決できると主張した下村は、各方面からの批判にさらされた。
 その下村に注目したのが、政権の座をうかがっていた自民党の政治家、池田勇人だった。孤立無援だった下村の成長理論は後に首相になる池田の経済政策、いわゆる「所得倍増論」のバックボーンになる。
 池田は政権誕生後の60年末に国民所得倍増計画を発表する。だが、皮肉なことにその作成に下村は関与していない
 企画庁などが主導した計画は年平均成長率を7・8%と想定した。計画の総説を執筆した宮崎勇は「成長率見通しとしては高いかな、と思いつつこの数字なら10年で2倍になるなとも考えた」と語る。
 この数字に池田が反発、別紙に「当初3年は9%成長を達成」と記す折衷案で決着した。下村は9%という数字にも「腹8分目よりも控え目」と批判的だった。
 所得倍増計画に対する世間の反応は当初冷ややかだった。日本長期信用銀行の若手エコノミストだった竹内宏は「所得を2倍にするなんて、政治家はまた平気ででたらめを言うという感じだった」という。
 だが、そんな不満をかき消すような経済の飛躍がそこから始まっていく。

増え続ける雇用
 まず、空前の設備投資ブームが起きた。鉄鋼、石油化学など「川上」から家電、自動車など「川下」まで、「投資が投資を呼ぶ」相乗効果が生まれた。
 各地に新たな工場地帯ができ、雇用が創出された。
 「黒船がやってきたような感じ。田舎町がどう変わるか、期待と不安の両方があった」。福山市の羽田皓市長は地元で日本鋼管の製鉄所建設が始まったころを回想する。学生だった羽田は市役所に就職。増える人口に合わせて学校を新設する仕事などに追われた。
 新たな雇用先に吸収されていった若い世帯は競うように耐久消費財を購入。メーカーにとってはつくればそれだけ売れる状況になった。例えば60年に10%だった電気冷蔵庫の普及率は70年には89%に達した。
 超強気にみえた下村の予言は当たり、60年代の経済成長率は平均で10%を超えた。投資と消費の好循環がうまれた高度成長をなぜ実現できたのか。
 『高度成長』と題した著書がある吉川洋東大教授は「先進国は歴史的に農村から都市への人口の大移動を1回だけ経験している。日本ではそれが60年代にかけて起きたが、そのチャンスをいかすことができたのが大きい」と指摘する。
 農村からの若い労働力を活用して製造業の生産性は一気に伸びた。背景には「能力の高い技術者や起業家精神にあふれた経営者の存在があった」(吉川)。
 所得倍増計画は高度成長の実現にどんな役割を果たしたのか。吉川は「成長の主役は民間だったが、政府が成長を志向する大きなビジョンを示したことは重要な意味をもった」と見る。
 「計画では、民間の活動を支える社会資本の充実を重視した」と宮崎。道路、港湾などの必要投資額が計画に示され、それに沿って投資が実行されていった。
 計画は「民間の自主的活動」を強調しつつ、鉄鋼や自動車の生産予測も掲げ、新設高炉の必要数などにも触れている。計画実現へ向けて関連省庁と業界や政府系金融機関などとの間で様々な調整も進められた。
 竹内はこの時期の官民関係について「官僚は自分たちの力で物事が動いたと胸を張り、メーカーは自らの意思で投資を決断したと思う。皆が自分の成果と錯覚できるような協調の仕組みだった」と指摘する。

元経済企画庁長官宮崎勇氏―みなで働き成果を実感、他
 国民所得倍増計画の作成に経済企画庁の課長補佐としてかかわったが、計画を主管した企画庁と池田首相や下村治さんとの間では先行きの見方に大きな違いがあった。
 下村さんは計画作成には参加していないが、首相周辺の勉強会の中軸だった。首相側近の登坂重次郎さんなどが時々こちらにきては勉強会ではこんな話になっているよと教えてくれた。
 下村さんは10%成長は十分可能と言うが、我々は戦前の4~5%よりは高いが、2ケタやそれに近い数字は想定できないと考えていた。それで10年で2倍になる7%台の成長を念頭に計画を書いたが、首相周辺との折衷案で当初3年は9%成長の実現をめざすという内容の一文が入った。
 そんなやりとりもあってできた計画だが、作成過程には学者、経営者、メディアなど200人以上が加わって本当にかんかんがくがくの議論をした。計画とはいっても、民間は民間の方針でやる、政府は社会資本整備などを責任をもって実施するという役割分担も明確にした。
 60年代の成長は率直に言って予想を超えた。質の高い労働力が豊富に存在し、人々が成果を実感しつつ懸命に働いた結果だろう。人間が支えた高度成長だ。
 経営者も貪欲に海外から技術を導入し、経営を革新した。政府の成長見通しを基礎に、ならば我が社はそれを上回る投資をする、あちらがやるならうちもというデモンストレーション効果も働いた。当時最先端の技術を導入したから生産性も競争力も高まった。
 先行きは厳しいが、成長の旗は振り続けてもらわないと困る。いまビジョンを出すなら人の能力を開発・進化させることではないか。日本人が一緒になって働き、問題を解決していくことが重要だ。

吉川洋東大教授
 高度成長の著しい特徴は内需主導だったという点だ。寄与度で見れば100%が消費と設備投資を柱とする内需。輸出から輸入を引いた「純輸出」は平均ではほぼゼロだ。
 生産性の上昇に見合って賃金が増えたことが内需を伸ばす大きな力になった。「民族大移動」で都会に出てきた若い世帯が、増えた給与でテレビ、冷蔵庫など「3種の神器」を買い、それが設備投資を促す好循環がはたらいた。
 だが、こうしたメカニズムを予見した人は少なかった。支配的だったのは「戦後の復興が終われば成長を維持するのは困難」「成長より格差是正が重要」といった主張だ。低賃金を武器に輸出主導で伸びた戦前の成長イメージが根強く残っていたためだろう。
 それに異を唱え、日本経済の潜在力は大きく、成長を通じて格差も縮まるという考えをとったのが池田首相であり、理論的に支えたのが下村氏らだった。まさにその通りになったという意味で先見の明があったというしかない。
 所得倍増計画は計画そのものより、悲観論を排して高成長は可能との明確なビジョンを描き、それを行き渡らせた点に意味がある。
 現在も成長の時代は終わったとの声が聞かれるが、私は違う考え方を持つ。実質1~2%の成長はできるし、実現すべきだ。需要が飽和状態になったわけではない。いまビジョンを示すなら高齢化と環境が大きなテーマになろう。
 高齢化ですべてのものががらりと変わる可能性がある。建物、自動車から流通、町づくりまでイノベーションの宝の山だ。技術を活用すれば21世紀にふさわしい介護の姿も描けるはずだ。環境重視を徹底すれば投資も必要になる。
 チャンスは目の前にいくらでもある。人口が減るからもうだめという閉塞感を払拭しなければならない。

革新が突破口、今も
 2ケタ成長の時代が去ってすでに40年あまり。いまや潜在成長率がゼロ%台半ばから後半と言われる状況になった。人口減少から新興国の追い上げまで、置かれた状況は当時と正反対に見える。
 無理に背伸びして目先の成長を追うのは正しくなかろう。工場をつくり、モノの消費を増やすのは限界もある。だが、成長のタネは消えたと考えるのは早計だ。
 「克服、解決すべき問題を見いだし、打開のため工夫するところに革新への情熱がうまれる」。下村はかつてこんな趣旨の指摘をしている。
 現在も人手不足、高齢化、エネルギー制約と「革新の情熱」を呼び覚ます課題には事欠かない。それを打開するためのイノベーションこそ成長のカギを握る。その点は当時と今も変わりはない。
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by kcapital | 2015-07-26 12:47 | スクラップブック